先日、自動車免許証の更新に出かけた。手渡された新しい免許証を何気なく眺め、思わず息をのんだ。そこに写っていたのは、紛れもなく一人の高齢者だったからだ。男というもの、自分の顔をまじまじと見つめる機会は、実のところほとんどない。
高橋源一郎の『ぼくたちはどう老いるか』を読んだ。そこに登場するのは、1906年(明治39年)生まれの私小説家・耕治人(こう はると)である。八十歳に近づいた頃、妻は認知症を患った。物忘れが激しくなり、鍋を空焚きして火事になりかける。やがて妻は老人ホームに入所することになる。
ほどなくして、耕治人自身も末期がんと診断され、入院生活に入った。残された時間が限られていると悟ったとき、彼の胸に去来したのは、妻に会いたいという切実な思いだった。老人ホームの職員が妻を病院に連れてきてくれた。しかし、妻は目の前の男性が誰なのか分からない。何度目かに「ご主人ですよ」と告げられたとき、彼女は低い声で「そうかもしれない」とつぶやいた。
「さようなら。ありがとう。愛しい人よ」
そう呼びかけても、最愛の伴侶からの応答はない。耕治人はその最期の別れの情景を書き留め、病院を訪れた担当編集者に、生涯最後となる原稿を手渡した。
老いは、情け容赦なくやってくる。だからこそ、自分にとって価値あることをなし、家族や友人と穏やかに暮らすことを目標にしたい。できるだけ長く健康でいるために、往復三十分の道のりを歩き、惣菜屋まで昼の弁当を買いに出かけた。
「麻婆豆腐」「長芋とエビのフリット」「タラモサラダ」「春菊と柚子の白和え」。
慎ましいが、今の自分にはちょうどよい、確かな生活の手触りである。